今日は、ピクチャーズ・ジェネレーション・と西洋美術史における写真作家についてまとめていきたいと思います。
ピクチャーズ・ジェネレーションとは西洋美術史において、1970年代-1980年代に出てきたアーティストをカテゴリーを行う上で使用されている言葉です。
日本人作家で構成されている、日本独自の日本写真史の文脈で語られるようなカテゴリーとは明らかに内容が異なります。ここの歴史にいる作家を同一のテーブルの上で理解しようとすると混乱するのでご注意ください。
現代アートの文脈における「写真」は、単にシャッターを切る行為だけを指すのではなく、「写真というメディアをどう扱うか」というコンセプトの変化の歴史でもあります。大きく3つのカテゴリーに分けることができます。はっきりとカテゴリーで分けるのが難しい領域でもありますので、大まかなカテゴリーだということを考慮してください。
現代写真における3つの大きなアプローチ
現代アートとしての写真は、「撮る(Taking)」から「作る(Making)」へと大きくシフトしてきました。もちろん作家自身が撮影する場合も、撮影しない場合もありますが、いずれも同等に作品として成立する不思議ですが面白い表現アプローチです。
1.「記録」を拡張するグループ
• アーティスト: トーマス・シュトルート、ヴォルフガング・ティルマンス
• 特徴: 目の前の現実を捉えるという写真本来の機能を使いつつ、その「視点」や「集積」によって、日常や歴史の重みを描き出します。
2.「演出」して構築するグループ
• アーティスト: ジェフ・ウォール、シンディ・シャーマン、杉本博司
• 特徴: 映画のセットを組むように、あるいは長い時間をかけて、「存在しないが、写真の中では真実として現れる風景」をゼロから構築します。演出やセットの準備、写真撮影技法を考え、コンセプトを表現している作品が多いです。
3.「既存のイメージ」を再定義するグループ
• アーティスト: バーバラ・クルーガー、ルイーズ・ローラー、トーマス・ルフ(一部)
• 特徴: 自分で撮ることよりも、「世の中に溢れている画像」をサンプリング・加工し、全く別の意味を付与します。もちろん自分で撮影する場合もあります。
ピクチャーズ・ジェネレーション
「ピクチャーズ・ジェネレーション」を一言で言えば、「ゼロから作るのをやめて、世の中に溢れているイメージをサンプリング(再利用)し始めたアーティストたち」のことです。
1970年代後半から80年代にかけてニューヨークを中心に登場した、写真や映像を扱うアーティストの一群を指します。彼らは、カメラを持って外に「決定的な瞬間」を撮りに行くのではなく、雑誌、広告、映画、テレビといった「既にあるイメージ(Pictures)」を素材として使いました。
なぜ「ピクチャーズ(画像)」なのか?
それまでの芸術は「作家の独創性(オリジナル)」が何より大切でした。しかし彼らはこう考えました。「私たちの欲望も、アイデンティティも、結局はメディアが作った『作り物のイメージ』に支配されているんじゃないか?」自分たちで新しく撮るよりも、既にある広告や映画の構図を「流用」する方が、現代社会の正体を暴き出せると考えたのです。
2. 核心となる手法:アプロプロイエーション(流用)
彼らの最大の武器は「アプロプロイエーション(Appropriation:流用・借用)」です。今で言う「サンプリング」や「リミックス」に近い感覚です。
何をしたのか?:既存の広告から文字を消したり、他人の撮った写真をそのまま再撮影(リフォトグラフ)したりしました。
目的は何か?:オリジナリティという神話を壊し、「イメージが消費される仕組み」を皮肉ること。
3. 代表的なアーティストと「手法」
シンディ・シャーマン
セルフポートレート
映画や雑誌の中の「ステレオタイプな女性像」を自分で演じてみせる。
バーバラ・クルーガー
文字と画像のコラージュ
広告写真に「お前の体は戦場だ」などの過激な言葉を重ね、権力構造を批判する。
リチャード・プリンス
再撮影(リフォトグラフ)
タバコの広告(マルボロ・マン)から文字を消して再撮影し、「男らしさ」の虚構を暴く。
シェリー・レヴィン
コピーそのもの
有名な写真家の作品を「そのまま」撮影し、芸術の価値を問い直す。
4. なぜ今、この概念が重要なのか?
現代の私たちは、SNSで毎日膨大な画像に触れ、フィルターで加工し、誰かの構図を真似して投稿しています。
・「映え」を狙う行為
・ミーム(Meme)の拡散
・ AIが既存の画像を学習して生成するアート
これらはすべて、「ピクチャーズ・ジェネレーション」が40年以上前に予言し、批判的に向き合っていたことの延長線上にあります。彼らは、デジタル時代の「画像の民主化」や「虚構性」を先取りしていた、いわば「サンプリング文化の先駆者」なのです。
※Meme: (ネット上で模倣・拡散され、共通の文脈として楽しまれる画像、動画、フレーズ)
時代背景
現代アートにおいて写真が決定的な役割を果たした1970年代後半から80年代は、まさに「世界の捉え方が根本からひっくり返った時代」です。当時のアーティストたちがどんな空気の中で戦っていたのか、4つの主要な背景に整理しました。
1. メディアの氾濫と「イメージの飽和」
70年代から80年代にかけて、テレビ、雑誌、ビルボード広告が爆発的に普及しました。人々は「生の現実」を見る時間よりも、「メディアを通した画像(イメージ)」を見る時間の方が長くなったのです。
社会状況: マス・メディアによる大衆操作への警戒心。
アートへの影響: 「私たちが『自分らしい』と思っている欲望や好みは、実は広告に植え付けられたもの(作り物)ではないか?」という疑念。これが、ピクチャーズ・ジェネレーションが既存の広告をそのまま使う(流用する)最大の動機になりました。
2. ポストモダニズム:「真実」の崩壊
この時代は、思想界でも「ポストモダニズム」という大きなうねりがありました。
キーワード:「大きな物語」の終焉、シミュラークル(本物のないコピー)。
社会背景: 科学や理性がすべてを解決するという「近代(モダン)」への信頼が揺らぎました。
アートへの影響: 写真はかつて「真実の記録」でしたが、この時代の作家たちは「写真は嘘をつくための最高の道具である」と考えました。ジェフ・ウォールのステージング(演出)や、杉本博司さんの蝋人形の撮影は、この「何が本物か分からない」という時代の不確実性を表現しています。
3. フェミニズムと「眼差し」の政治学
80年代は、ジェンダーや人種といった「アイデンティティの政治」がアートの最前線に躍り出た時代です。
社会背景: 第二波フェミニズムの進展。「男性が女性を見る」という一方的な視線(男性の眼差し/Male Gaze)への批判が高まりました。
アートへの影響: バーバラ・クルーガーやシンディ・シャーマンは、写真を使って「メディアがいかに女性を消費可能な記号として扱ってきたか」を暴きました。彼女らにとって写真は、社会を変えるための「武器」だったのです。
4. アートマーケットの肥大化と「芸術の資本主義化」
1980年代は、レーガン政権やサッチャー政権下での新自由主義により、経済が急成長し、アートが投機の対象になり始めた時期でもあります。
社会背景: 芸術がお金持ちのステータスシンボルとして消費され始めました。
アートへの影響: ルイーズ・ローラーのように「コレクターの家で、家具の一部のように飾られたアート」を撮影する作家が現れました。彼女は、アートが「崇高な表現」から「ただの商品」へと変わっていく現場を冷ややかに記録したのです。
杉本博司の独特な立ち位置
この時代を一言で表すなら、「純粋さが失われ、すべてが引用と加工の対象になった時代」です。ここで興味深いのは杉本博司さんです。剥製の動物や蝋人形の撮影も行っていましたが、杉本博司さんが、当時のニューヨークに身を置きながら、あえて『海景』のような「何万年も変わらない風景」を撮り始めたのは、当時の喧騒に対する究極のカウンター(逆説的な抵抗)だったのかもしれません。
絵画ではなく、イメージについての模索
「絵画」がキャンバスや絵具といった「物質」と、作家の「手仕事」を重んじる表現だとすれば、紹介した作家たちの多くは、「イメージ(画像)」という概念そのものを素材として扱っています。彼らが「イメージ」に対してどのような異なるアプローチを模索していたのでしょうか?
「イメージ」をどう料理するか:4つのアプローチ
現代のアーティストにとって、イメージは単なる「写されたもの」ではなく、分析し、解体し、再構築すべき「社会的な言語」のようなものです。
1. イメージの「政治学」を暴く(バーバラ・クルーガー、シンディ・シャーマン)
彼女らにとって、世の中に溢れるイメージは「誰かが作った価値観の押し付け」です。
アプローチ: イメージを「引用」し、そこに言葉を添えたり自ら演じたりすることで、その裏に隠された権力、ジェンダー、欲望の構造を白日の下にさらけ出します。
感覚: イメージの「嘘」を暴くための手術(解剖)。
2. イメージの「神話性」を追求する(アンドレアス・グルスキー、ジェフ・ウォール)
彼らは、写真が持つ「一瞬を切り取る」という特性をあえて捨て、絵画のような巨大な物語性をイメージに持たせます。
アプローチ: デジタル合成や映画のような緻密な演出を使い、現実には存在しない「完璧すぎるイメージ」を作り上げます。
感覚: 現実を素材にした新しい神話の構築。
3. イメージの「記号性」を検証する(トーマス・ルフ、カンディダ・ヘーファー)
写真は対象を正確に記録する「記号」であるという前提に立ち、その限界を試します。
アプローチ: 感情を排したタイポロジー(分類学)的な手法で、建築やポートレートを淡々と集積します。
感覚: イメージをデータとして扱うアーカイブ(目録化)。
4. イメージの「精神性」を瞑想する(杉本博司)
イメージが持つ「時間を止める力」を使い、視覚を超えた概念を提示します。
アプローチ: 長時間露光など、肉眼では決して見ることのできない「純粋なイメージ」を生成します。
感覚: イメージを通した哲学的・宗教的な対話。
「作られた画像」が支配する世界への応答
1970〜80年代のアーティストたちが直面していたのは、ジャン・ボードリヤールが唱えた「シミュラークル(本物のないコピー)」の世界でした。
ボードリヤールの「シミュラークル」
ボードリヤールの「シミュラークル」は、現代アートを理解する上で避けて通れない理解しずらい概念です。「オリジナル(本物)がどこにもないのに、コピーだけが一人歩きしている状態」と噛み砕くと分かりやすくなります。
具体的に、当時のアーティストたちが何に危機感(あるいは興味)を持っていたのか、3つのステップで深掘りしてみます。
1. 「地図が領土に先んじる」という逆転現象
ボードリヤールは有名な比喩として「地図と領土」の話をしています。
かつて: 実際の土地(領土)があり、それを正確に写したのが地図でした。
シミュラークルの世界: ネットやテレビで見た「イメージ(地図)」が先にあって、私たちはそれを見て「あ、本物もこうなんだな」と納得する。あるいは、イメージに合わせて現実を作り替えてしまう。
例えば、「ハワイ」という場所を思い浮かべる時、私たちは実際に行く前に、広告や映画が作った「青い海、ヤシの木、フラダンス」というイメージの束(シミュラークル)を消費しています。もし現地に行ってヤシの木がなかったら「何か違う、イメージしていたものではない。。。本物じゃない」と感じてしまう。「コピーやイメージが本物を規定している」状態です。
2. イメージの「4つの段階」:画像が「真実」を殺すまで
ボードリヤールは、画像(イメージ)が進化するにつれて、現実との関係がどう変わるかを4段階で説明しました。
第1段階:それは根源的な現実の反映である(例:記録写真)
第2段階:それは根源的な現実を覆い隠し、変質させる(例:加工写真、レタッチ【広告等でプロが加工し、イメージを意図して良く見せ、さらに加工を隠す行為】)
第3段階:それは根源的な現実の不在を覆い隠す(例:スタジオで完璧に作り込まれた「理想の生活」の風景。理想化されており存在しない。理想的な男性像や女性像)
第4段階:それは、いかなる現実とも無関係であり、それ自身の純粋なシミュラクルである: もはや現実とは何の関係もない。参照すべきオリジナルの現実は消滅し、イメージがイメージとしてのみ流通する状態。(例:AIが生成した実在しない人物のポートレート。SNS投稿(コピー)をさらに真似して作られた「バズる目的のイメージや、映えのみ」という記号)
80年代のアーティスト(ピクチャーズ・ジェネレーションなど)が扱ったのは、主にこの第4段階です。「この広告の女性にモデルはいるけれど、そのポーズも笑顔も、既存の『幸せな女性像』という記号をなぞっているだけで、そこには一人の人間としての実体はない」という空虚さを描こうとしました。
第3段階は、広告やCM、雑誌等でも現在でも流通していますね。
3. 具体例:なぜ「再利用」や「演出」が必要だったのか
当時の作家たちが直面していた具体的な問題を、2人の作家で見てみましょう。
リチャード・プリンス(カウボーイの再撮影)
彼はタバコ「マルボロ」の広告写真をそのまま再撮影しました。そこに写っているカウボーイは、アメリカの開拓精神の象徴ですが、実は「広告代理店が作った虚像」です。本物のカウボーイなんてそこにはいない。彼は「コピーをコピーすること」で、私たちが信じている『男らしさ』がいかに作り物(シミュラークル)であるかを証明しました。
シンディ・シャーマン(映画の役を再現したかのような、自撮り)
彼女は「どこかの映画で見たような女性」を演じますが、特定の映画の真似ではありません。「映画的なイメージ」そのものを演じているのです。「オリジナル(特定の役)がないのに、いかにもそれらしいコピー」を量産することで、私たちのアイデンティティがいかに既存のイメージの寄せ集めであるかを提示しました。
「1980年代、アーティストたちは気づいてしまいました。私たちが『本物』だと思って追いかけているものは、実はメディアが作った『中身のないパッケージ』に過ぎないのではないか?と。
誰も見たことがない『理想の家族』や『完璧な風景』。その本物のないコピー(シミュラークル)が溢れる世界で、彼らはあえてその『偽物』を素材に使うことで、現代社会の正体を暴こうとしたのです。」
第4段階:それは、いかなる現実とも無関係であり、それ自身の純粋なシミュラクルである
この第4段階は少し理解しずらいので、さらに詳しく分析していきたいと思います。
2020年代の私たちは、メタバースやAI画像といった「目に見える仮想空間」があるため、第4段階を直感的に理解できます。しかし、インターネット以前の1970〜80年代において、ボードリヤールが「現実との接点が完全に切れた」とまで断言したのはなぜでしょうか。当時の人々が直面していたのは、デジタルな仮想現実ではなく、「テレビと資本主義が作り上げた記号のループ」でした。
1. テレビという「閉じた回路」
当時の最大の「シミュレーション装置」はテレビです。
現象: 人々は「現実で起きたこと」をテレビで知るのではなく、「テレビで流れたこと」を現実として受け止めるようになりました。
第4段階の例: テレビの中で有名人が別のテレビ番組の話をし、ニュースがドラマのような演出で誇張された状態を現実として語られる。
ポイント: テレビというメディアが、現実を参照するのをやめて「テレビの中のルール・演出」だけで回り始めた状態です。視聴者はテレビの向こう側に「本物の現実」があるかどうかを気にしなくなり、画面上のイメージこそが唯一の現実(ハイパーリアル)になりました。
2.「ブランド」という純粋な記号
1980年代は消費主義が爆発した時代です。ここで「商品(モノ)」と「記号(イメージ)」が完全に切り離されました。
現象: 例えば、あるスニーカーが売れるのは、その機能(現実)のためではなく、そこに刻印された「ロゴ」や、広告が作り出した「クールなイメージ」のためになります。あの、オリンピック選手が広告に出ているから買うのです。
第4段階の例: ロゴマーク自体が価値を持ち、そのロゴが何を象徴しているのか(例えば、フェアプレー精神、スポーツマンシップ)という「根源的な現実」はどうでもよくなります。
ポイント: 記号・ロゴ(ブランド)が別の記号(ステータス:お洒落・金持ち・カッコいい・可愛い)を指し示すだけで、中身の「モノ」との関係が切れてしまった状態です。
なぜブランドとステータスの関係が「第4段階」に該当するのか、そのロジックを整理していきます。
第4段階が第3段階と決定的に違うのは、「本物(中身)があるかないか」という議論自体が、もはや無意味になっている点です。
1. 「隠すべき中身」すら必要としない
第3段階(不在の隠蔽):「実は中身は空っぽ(不在)なんだけど、いかにもあるように見せかける」という**「ごまかし」**の段階です。ここではまだ「中身(現実)があるべきだ」という規範が残っています。
第4段階(純粋なシミュラクル):「中身があるかないか」はどうでもよくなります。「記号(ブランド)が別の記号(ステータス)を指し示す」というゲームそのものが現実(ハイパーリアル)になります。
2. 具体例:高級時計の価値
1980年代の高級ブランド時計を例に考えてみましょう。
第2段階(歪曲):「この時計は精度が素晴らしい(現実)」という広告。少し誇張していても、対象は「時計の機能」です。
第3段階(隠蔽):時計としての性能は平凡なのに、貴族的なイメージの広告で「伝統ある名品」に見せかける。中身のなさをイメージで「隠して」います。
第4段階(シミュラクル):人々がその時計を買う理由は、「正確な時間を知るため(現実)」ではなく、「そのロゴが付いている=成功者である」という記号の交換のためです。正確さなら安価なクォーツ時計の方が上かもしれない。でも、そんな「現実の機能」との比較はもはや誰もしていません。成功者であるという実態の無いイメージにお金を支払います。
「ブランド(イメージA)」=「ステータス(イメージB)」という、イメージ同士の等式だけで価値が完結しています。
ここで、物理的な時計(モノ)は、単なる「記号を運ぶための台座」に過ぎなくなっています。これが「現実(モノの機能)との関係が切れた」状態です。
3. 「シミュレーション」の完成
第4段階において、イメージは何かを「表している(Represent)」のではありません。イメージが「現実を先取りし、作り出している(Simulate)」のです。
「成功したからそのブランドを持つ」のではなく、「そのブランドを持つことで、成功者という現実(シミュレーション)が完成する」。
ここでは、ブランドというイメージが、持ち主のアイデンティティという現実をゼロから作り出しています。
「第3段階までは、まだ『中身(現実)』との化かし合いがありました。 しかし第4段階では、中身は完全に引退してしまいます。
80年代のブランドブームで起きたのは、モノを欲しがる運動ではなく、『イメージを別のイメージに変換するゲーム』でした。ロゴがステータスを指し、ステータスが羨望を指し、羨望がまた別のロゴを指す……。
この、現実の『モノ』が一度も顔を出さない無限ループこそが、ボードリヤールが予言した『純粋なシミュラクル』の世界なのです。」
当時のアーティスト(ピクチャーズ・ジェネレーション)の視点
彼らはこの「ループ」の中にカメラを放り込みました。 例えば、ルイーズ・ローラーが「豪華な部屋に飾られたアート」を撮ったのは、「アートという根源的な感動(現実)」が、「成金的なインテリア(ステータス)」という記号に変換されて消費されている第4段階の現場を告発するためでした。
「モノ自体の価値」が消えて、「イメージの交換」だけが残る……。この感覚、どこかで経験したことないでしょうか?
3. 政治の「イメージ化」:ロナルド・レーガン
ボードリヤールが当時、第4段階の象徴として見ていた一人が、俳優出身の米大統領ロナルド・レーガンでした。
現象: 政治家が「政策(現実)」で選ばれるのではなく、テレビ映りの良さや、映画のヒーローのような「大統領らしさ」というイメージで選ばれるようになりました。
第4段階の例: 大統領が語る「強いアメリカ」という言葉が、実際の経済指標や軍事力という現実を指すのではなく、古き良きハリウッド映画のような「イメージの再現」として流通する。
ポイント: 政治という「現実の営み」が、エンターテインメントという「シミュレーション」の中に完全に飲み込まれてしまった状態です。
4. 投機経済:お金がお金を生む
80年代の金融市場もまた、第4段階的でした。
現象: 実際に工場でモノを作る(現実の経済)ことから切り離され、コンピューター上の数字が数字を呼ぶ「投機」が加速しました。
ポイント: お金という記号が、実体のある商品(現実)を媒介せずに、数字から数字へと増殖していくループ。これこそが「根源的な現実と無関係に、イメージ(数字)がイメージを生む」第4段階そのものです。
当時のアーティストたちの反応
こうした「中身のないイメージが世界を支配し始めた」感覚に対して、アーティストたちは以下のように反応しました。
リチャード・プリンスは、タバコの広告を再撮影することで、「カウボーイという現実の人間はいない。あるのは広告の中のポーズ(記号)だけだ」と突きつけました。
ジェフ・ウォールは、一見スナップ写真に見えるものを、映画のような膨大な予算と演出で「構築」しました。これは「私たちが現実だと思っているものは、すべて演出されたシミュレーションである」という当時の感覚を体現しています。
2026年以降について
現代のSNSは、80年代にテレビや広告が始めた『イメージによる現実の乗っ取り』を、個人のレベルまで民主化し、加速させたものに過ぎないのです。当時の「テレビが現実を飲み込んでいく感覚」と、今の「スマホの中の世界で起きているイメージの連鎖が、現実を飲み込んでいる感覚です。
このように、「本物と偽物の境界が消えてしまった時代への戸惑い」として理解していくと、現代のSNS社会(加工フィルターやAI生成画像)にも通じる、非常にタイムリーな感覚も覚えます。
「本物の現実」よりも「メディアが流す画像」の方が魅力に感じられ、それに無意識にも意識的にも影響を受けてしまう社会において、彼らは「自分で新しく描く(絵画)」よりも、「既存のイメージがどう機能しているか(写真・イメージ)」を問う方が、現代という時代を表現するのに適していると判断したようです。
「かつての画家が『光』や『形』『構図・描き方・視点』を追求したように、現代のアーティストは『イメージ』という情報の海をどう泳ぐかを追求しています。
最後に
ピクチャーズ・ジェネレーションに挙げられる作家の共通項は、「批評(クリティーク)」こそが、作品の大部分を占めているということです。彼らにとって写真は、美しい景色やプライベートの視点や出来事を残すための「記録装置」ではなく、社会の仕組みや私たちの思い込みを解体するための「メス」や「顕微鏡」のような道具として使用しています。
1.「何を作るか」ではなく「どう機能しているか」
伝統的な芸術家(画家など)は、「美」や「感情」をキャンバスに定着させようとします。しかし、ピクチャーズ・ジェネレーション以降の作家たちは、「このイメージは社会の中でどう消費され、誰を支配しているのか?」という問いを作品にしました。
作品=問いかけ: 「この写真は誰の視点で作られたのか?」「なぜ私たちはこれを『美しい』『欲しい』と思ってしまうのか?」という思考のプロセスそのものがアートになります。
2. 3つの「批評」のターゲット
彼らが何を批判していたのかを整理していきます。
1. 文化・メディア批評(Cultural Critique)
広告や映画が作り出す「偽物のイメージ」が、私たちの欲望やアイデンティティをいかにコントロールしているかを暴く。
代表: バーバラ・クルーガー、リチャード・プリンス
手法: 広告の流用(アプロプロイエーション)
2. 制度批評(Institutional Critique)
「美術館」や「アートマーケット」というシステムそのものを疑う。アートが「高尚なもの」として扱われる裏にある、金や権力の動きを可視化する。
代表: ルイーズ・ローラー
手法: 収集家の自宅や倉庫にあるアートの撮影
3. アイデンティティ批評(Identity Critique)
「男らしさ」「女らしさ」といったアイデンティティが、実は社会によって演じさせられている「型」に過ぎないことを示す。
代表: シンディ・シャーマン、ローナ・シンプソン
手法: セルフポートレート、特定のステレオタイプの再現
3. 「二重の拘束(ダブルバインド)」の面白さ
彼らの批評活動のユニークな点は「批判している対象と同じ土俵に立っている」ことです。クルーガーは広告の手法を使いながら広告を批判し、シャーマンは映画的なイメージを使いながら映画の虚構性を暴きました。この「毒を以て毒を制す」ような、皮肉とユーモアをはらんだアプローチこそが、彼らの活動を単なる「反対運動」ではなく「アート」たらしめているポイントです。
現代アートにおいて写真は、単なる『鑑賞の対象』だけではなく、世界を読み解くための『批評の言語』としても利用されるようになりました。それ自体も写真の領域を拡張しているので面白い現象です。
作家たちはシャッターを切ることで、世界を美しくパッケージするのではなく、そのパッケージをベリベリと剥がし、中身が空っぽであることや、そこに隠された意図を私たちに突きつけたのです。
このように「批評性」を軸に据えると、なぜ彼らが「既存の写真をパクる(盗用・流用する)」ような、一見すると不真面目に見える手法を取ったのかが、理解できます。
最終更新日: