皆さん今晩は。今日は2024年12月17日(火曜日)夜20;50分頃です。昨日は森美術館の「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」展を、一昨日はWHAT MUSEUMで開催されている、T2 Collection「Collecting? Connecting?」展 – を鑑賞してきました。今年も残りわずか、後2つは美術展に行く予定です。
さて、最近は現代アートを中心に色々、本を読んだり、ネットで検索しながら学んでいっていますが、日本の現代アートの立ち位置がヨーロッパ、アメリカからどう見られているのか気になってきました。そこで、まずは横浜美術館で30年前の1994年に開催された「戦後日本の前衛美術」展の図録を注文しました。意外と高価で送料込みで4,000円でした。届くまで少し時間かかりそうですが楽しみです。届きましたら、ブログ上で報告できればと思います。
目次
序章 アレキサンドラ・モンロー
状況についての課題 90年代を中心に 天野太郎
カタログ
1.真夏の太陽にいどむ:具体美術協会
2.環:モダニズムと伝統
3.復讐の形態学:読売アンデパンダンと1960年代の社会的プロテスト
4.肉体の叛乱:暗黒舞踏とオブセッショナル・アート
5.微笑の箱:東京フルクサス、概念芸術と形而上学派
6.状況律:もの派、そして彫刻的パラダイムを超えて
7.無限の網:日本の現代抽象絵画
8.鎖陰:実験映画とビデオ
9.ヒノマル・イルミネーション:1990年代の日本のアート
作家略歴
主要参考文献
出品作品リスト
編集:横浜美術館学芸部
デザイン:梯耕治
出版社 publisher:読売新聞社/The Yomiuri Shimbun
刊行年 year:1994
ページ数 pages:282
サイズ size:H300×W227mm
戦後日本の前衛美術展
この展覧会は、ゲスト・キュレーター(客員学芸員)にアメリカのアレキサンドラ・モンロー氏を迎え、同氏による戦後日本の前衛美術について綿密な調査にもとづいて企画、構成されたものです。
前衛的な美術のメッカであるアメリカの影響を色濃く受けた戦後の日本の前衛美術は、一方でそれ自身独自な世界も形成してきました。本展は、戦後の主要な前衛的な美術運動、あるいはそれぞれの時代の思潮を色濃く反映した作品などを9つのセクション、すなわち、
Ⅰ.真夏の太陽にいどむ:具体美術協会
Ⅱ.環:モダニズムと伝統
Ⅲ.復讐の形態学:読売アンデパンダンと1960年代の社会的プロテスト
Ⅳ.肉体の叛乱:舞踏とオブセッショナル・アート
Ⅴ.微笑の箱:フルクサスとコンセプチュアル・アート(概念芸術)
Ⅵ.状況律:もの派と彫刻的パラダイムを越えて
Ⅶ.無限の網:日本の現代抽象絵画
Ⅷ.鎖陰:実験映画とビデオ
Ⅸ.ヒノマル・イルミネーション:1990年代の日本のアート
に分け、
それらを歴史的にたどりながら、ともすれば海外の美術動向の模倣にすぎないといった評価を受けがちな日本の前衛美術の独自性を示そうとするものです。
白髪一雄、イサム・ノグチ、篠田桃紅、草間彌生、李禹煥、高松次郎、中村一美、中西夏之、久保田成子、杉本博司、森村泰昌、中原浩大、辰野登恵子、ダム・タイプ、遠藤利克、といった様々な世代の作家をはじめとする100数名の作家200点余りの幅広い表現を示す作品から構成され、かつてない規模のこの展覧会は、戦後の日本の前衛美術の流れを概観する上で絶好の機会となるでしょう。
会期:1994年2月5日(土)~3月30日(水)
https://yokohama.art.museum/exhibition/199402_japaneseart/
アレキサンドラ・モンロー
アレクサンドラ・モンローは、アメリカのキュレーター、アジア研究者、芸術、文化、制度的グローバル戦略を専門とする著者である。40以上の展覧会をプロデュースし、近現代アジア美術に関する先駆的な研究書を出版している。草間彌生(1989年)、森山大道(1999年)、オノ・ヨーコ(2000年)、穆鑫( 2001年)、蔡國強(2008年)、李禹煥(2011年)など、北米で初となる大規模な回顧展を企画し、具体、もの派、中国のコンセプチュアル・アートなどの歴史的な前衛運動や日本のオタク文化を国際的に注目させた。彼女のプロジェクト「1945年以降の日本美術:空への叫び」(1994年)は、北米で戦後日本美術史の分野を切り開いたことで知られている。
最近では、モンローはグッゲンハイム美術館の展覧会「1989年以降の中国と美術:世界の劇場」(フィリップ・ティナリ、ホウ・ハンルウと共催)の主任キュレーターを務め、ニューヨークタイムズ紙は2017年のトップ10展覧会の一つに選び、ARTnewsは過去10年間で最も影響力のある展覧会のトップ25に選びました。モンローの展覧会と、アメリカと日本で戦後日本美術史の知識を強化する研究の広範な影響が評価され、彼女は2017年の国際交流基金賞と2018年の文化庁長官賞を受賞しました。どちらも日本政府から授与されています。(フリー百科事典『ウィキペディア』より)
【森美術館】トーク「日本の現代美術はどのように海外に紹介されたのか」第2回(ウェビナー)|Talk Session “From Japan to Overseas: Archival Display”
森美術館のYoutubeチャンネルの動画になりますが、美術史家の富井玲子さん、森美術館館長の片岡真実さんによる動画です。
富井玲子さん
ニューヨークを拠点に、戦後日本美術をグローバルかつローカルに検証してきた美術史家の方です。
富井さんが関わった美術展
「グローバル・コンセプチュアリズム」展(1999年)
「センチュリー・シティー展」(2001年)
「荒野のラジカリズム」展(2019年)
を中心に、アメリカでの日本現代美術の需要とその変遷について語ってくださっています。また、Amazonで書籍を探していたら、2024年の12月に書籍が出版されていましたので、こちらも購入しました。
詳細はこちらから。
オペレーションの思想 富井玲子 (著)
1960年代、現代美術はこれ以上なく燃えさかっていた!
ラジカルかつダイナミックに表現とオペレーションに取り組んだ日本の作家たちの全貌
●主要目次
まえがき
序章 一枚の写真を見る
第一章 グローバル美術史の見取り図
第二章 はじめに団体展ありき
第三章 現代美術を語りなおすために
第四章 二科の吉原、具体の吉原
第五章 熱狂の広報(パブリシティ)から情報の覚醒
第六章 貸画廊を歩いてみよう
第七章 荒野の咆哮は未来へ木霊(エコー)【エコー】する
第八章 荒野の極点
第九章 京都発・現代美術
第十章 「東京ビエンナーレ ’70」――周縁からのカウンタープロポーザル
結びにかえて
あとがき――美術史のインターポエティック
索引
出版社: イースト・プレス (2024/11/6)
発売日: 2024/11/6
ハードカバー: 448ページ
言語: 日本語
著者について
富井玲子(とみい・れいこ)1957年大阪府生まれ。美術史家。大阪大学理学部数学科、文学部美学科をへて、テキサス大学オースティン校(アメリカ近現代美術史専攻)で博士号を取得。以後ニューヨーク在住、国際現代美術センター(CICA)の上級研究員を経て1992年より無所属のインディペンダント・スカラーとして活動。ポスト1945日本美術史研究をテーマにしたグローバルな学術メーリングリスト・グループ「ポンジャ現懇」(2003年設立)を主宰。 関心領域である日本の1960年代美術を出発点として、戦後美術のグローバルな展開を語るための方法論を構築し実践することを主な仕事とする。学術誌や展覧会カタログを中心に執筆多数。英文単著『荒野のラジカリズム―国際的同時性と日本の1960年代美術』(MIT大学出版局、2016年)がロバート・マザーウェル出版賞を受賞、同書をもとに、2019年に「荒野のラジカリズム―グローバル1960年代の日本のアーティスト」展をジャパン・ソサエティ(ニューヨーク)で企画開催。令和2年度文化庁長官表彰(文化発信・国際交流-日本美術研究)を受ける。
重要なのは多文化主義(マルチカルチュラリズム)という時代背景
ここで、ポイントは多文化主義(マルチカルチュラリズム)の広まりです。移民の受け入れに積極的だったアメリカでは文化的に多様性を尊重して社会を構成していこうという流れがあります。また、日本経済もバブル経済の盛り上がりをみせていたので、諸外国は日本の文化に興味を持っていたタイミングでもありました。
この時代背景まあいまって、日本現代アートがアメリカでも注目されていったようです。書籍を2冊購入したので届いて読み終わったら、またブログで報告する予定です。
そこで、多文化主義をさらに詳しく理解するためにChatGPTに聞いてみました。
**多文化主義(マルチカルチュラリズム)**は、異なる文化的背景を持つ人々が共存する社会において、その文化的多様性を認め、尊重し、積極的に受け入れようとする思想や政策のことを指します。この概念は、移民が増加した現代の多文化社会において、しばしば取り上げられる重要なテーマとなっています。
アメリカの移民と多文化主義の起源
アメリカは19世紀から20世紀初頭にかけて、多くの移民を受け入れました。特に、ヨーロッパからの移民が多数を占めており、その中でもイタリア人、アイルランド人、ユダヤ人などが都市部に定住しました。また、アジア系移民(特に中国人や日本人)が西海岸に多く住むようになりました。
移民がアメリカに持ち込んだ文化や価値観は、時には社会的な対立や偏見を生む原因となりましたが、同時に新しいアイデアや文化的な融合も促進しました。このような状況が、後の多文化主義の根底にある「文化的な多様性の重要性」や「共存」の理念を形成していきます。
1.多文化主義の基本的な考え方
多文化主義は、すべての文化が平等に価値を持つとする立場に基づいています。異なる民族や宗教、言語、伝統を持つ集団が、社会において自分たちの文化を維持し、発展させながら共に生活することが可能だとする考え方です。多文化主義は、各文化の独自性を保ちつつ、共存する社会を実現しようとします。
2.多文化主義と異文化間の対話
多文化主義は、文化的な差異が対立を生むのではなく、対話と理解を通じて共生の可能性を広げることを目指しています。つまり、異なる文化が共存することが、社会にとっての強みや創造的なエネルギーを生むとされます。この考え方では、文化的なアイデンティティや信念体系が尊重されるべきだとされ、差別や偏見を排除することが重視されます。
3.多文化主義の実践
多文化主義が実際にどのように実践されるかは、国や地域によって異なります。例えば、カナダやオーストラリアでは、移民が社会において自分の文化を保持しながらも、共通の社会的価値観を共有し、共生を目指す政策を採用しています。これに対して、フランスのような国では、むしろ市民としての平等を強調し、文化的な差異をある程度抑え込む傾向にあります(これを「共和主義的アプローチ」とも呼びます)。
4.多文化主義の利点
多様性の尊重: 異なる背景を持つ人々が互いに尊重し合い、文化的な違いを豊かさとして受け入れることができます。
社会的包摂: 社会の中で疎外されてきた少数派や移民コミュニティが、自分たちの文化を自由に表現し、社会全体と調和を保ちながら生活できるようになります。
創造的な発展: さまざまな文化が交わることで、新しいアイデアや発展が生まれる可能性があります。
5.多文化主義の課題
文化的摩擦: 異なる価値観を持つグループが共存する中で、意見や習慣の対立が生じることがあります。例えば、宗教的な習慣や言語の違いが社会的な摩擦を生むことがあるため、調整や対話が重要です。
社会的統合: 移民が自らの文化を維持しつつ、社会全体との統合をどのように進めるかが大きな課題です。統合が進まないと、社会内で分断が生じることもあります。
アイデンティティの確立: 多文化主義の社会において、個人が自分の文化的アイデンティティをどのように位置づけるかが難しい場合があります。特に二重文化を持つ人々は、アイデンティティの葛藤に直面することが多いです。
6.多文化主義の批判
多文化主義に対しては批判もあります。批判的な意見としては、文化的な差異を強調しすぎることが社会の一体感を損ねるという立場や、文化的な多様性を過剰に重視することで、社会的な統合が難しくなるという指摘があります。また、文化的な多様性を尊重するあまり、共通の価値観や規範が曖昧になる危険性も指摘されています。
7.現代における多文化主義
グローバリゼーションや移民の増加に伴い、多文化主義の重要性はますます高まっています。特に欧米の多くの国では、移民が社会の重要な一部となり、その文化的影響が大きくなっています。とはいえ、文化的な対話や共存を進めるためには、相互理解や教育、政治的な支援が欠かせません。
まとめ
多文化主義は、異なる文化が共存し、互いに尊重し合う社会を目指す理念であり、現代社会においてその重要性は増しています。しかし、実際の社会においては、多文化主義を実現するためには、課題や対立を乗り越え、全ての人々が平等に尊重される環境を作り上げることが求められます。
アメリカはなぜ19世紀から20世紀初頭にかけて移民を受け入れたか?
そこで、そもそもなぜアメリカは移民の受け入れに積極的だったのでしょうか?
アメリカが19世紀から20世紀初頭にかけて移民を受け入れた背景には、複数の経済的、社会的、政治的要因が絡んでいます。以下にその主な理由を挙げて詳しく説明します。
1.産業革命と経済的需要
19世紀はアメリカにとって、産業革命の波が到来した時期でした。この時期、急速な工業化が進み、鉄道や工場が拡大し、都市化が進みました。新しい工場や農地の開発に伴い、労働力の需要が急増したため、移民が重要な労働力供給源となったのです。
特に、鉄道建設、製造業(衣料、靴、機械など)、鉱業(特に西部での金採掘や石炭採掘)などの産業は、安価で労働集約的な労働力を必要としていました。多くの移民はこれらの仕事に従事し、アメリカの経済成長を支えました。
2.土地の拡大と西部開拓
アメリカは19世紀の大部分で西へと国土を拡大し続けました。特に「西部開拓時代」や「ホモステッド法(1862年)」によって、政府は土地を無料または安価で提供し、農業開拓を促進しました。この土地の開放は、農業に従事する移民にとって魅力的な要素となり、ヨーロッパやアジアから多くの人々がアメリカに移住しました。
特にドイツ人やスカンジナビア人(スウェーデン、ノルウェー、デンマークなど)、および後に東欧からの移民は、広大な土地を開墾することに魅力を感じ、アメリカの農業開拓に参加しました。西部への移住はアメリカにとって、土地の開発とともに、国の発展を加速させる重要な要因でした。
3.経済的困難と宗教的迫害
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパでは、経済的な困難や宗教的迫害が多くの人々をアメリカへと向かわせました。特に、イタリア、アイルランド、ポーランド、ロシアなどからの移民が増加しました。これらの地域では、次のような理由で移民が増えました:
農業不振
ヨーロッパの多くの地域では、土地が劣化し、農業生産が不安定になっていました。特にイタリアやアイルランドでは、土地不足や飢饉(例:1845年から1852年のアイルランドのジャガイモ飢饉)が人々をアメリカへと駆り立てました。
宗教的迫害
ヨーロッパでは、ユダヤ人やカトリック教徒(特にアイルランドやイタリア)、または他の宗教的マイノリティに対する迫害が存在しました。ロシア帝国などではユダヤ人に対する迫害(ポグロム)があり、これが多くのユダヤ人をアメリカに向かわせました。
政治的迫害
ロシアやオーストリア=ハンガリー帝国などでは、自由主義的な運動や革命が起こり、政治的な抑圧を受けた人々がアメリカに移住しました。
4.移民政策の緩和と歓迎
アメリカ政府は、移民を歓迎する政策を取ることが多く、特に19世紀末から20世紀初頭にかけては移民に対して開かれた政策を採っていました。この時期、アメリカには「アメリカン・ドリーム」という理念が存在し、自由と平等を求める移民にとって魅力的な目的地でした。
また、移民の受け入れを促進するために、政府は土地供与制度(ホモステッド法)や、産業を支えるための労働力供給策を強化しました。特にアメリカ東部の大都市(ニューヨーク、ボストン、シカゴなど)は、工業化が進んでおり、移民の受け入れ先として重要な役割を果たしました。
5.国際的な競争とアメリカの経済的地位の強化
アメリカは、世界的な経済大国として台頭していく中で、自国の経済力を強化するために移民を受け入れました。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アメリカは産業革命を迎え、特に鉄鋼業、石油業、農業などの分野で強力な経済基盤を築きました。この経済の発展は、アメリカが世界的な競争において優位に立つための重要な要素となり、移民はその労働力として不可欠な存在でした。
6.文化的・社会的要因
アメリカの「移民国家」としての性格が、移民受け入れの一因でした。アメリカは建国時から多様な民族や文化を包摂する国として自らを位置づけており、移民はアメリカの「理想」としての多様性を体現する存在でもありました。また、移民がアメリカに持ち込んだ異なる文化的背景や労働倫理が、アメリカ社会を多様で活気に満ちたものにすることが期待されました。
まとめ
アメリカが19世紀から20世紀初頭にかけて移民を受け入れた理由は、主に以下の要素に集約されます:
経済的な発展: 産業革命に伴う労働力需要や西部開拓に伴う土地供給。
社会的・政治的要因: ヨーロッパでの経済的困難や宗教的・政治的迫害からの避難先としてのアメリカ。
移民政策の積極的な実施: アメリカの成長を促進するための移民政策。
これらが重なり合い、アメリカは大量の移民を受け入れ、国の発展に不可欠な要素となったのです。
参考
横浜美術館「戦後日本の前衛美術」
Japanese Art after 1945: Scream Against the Sky|The Guggenheim Museums and Foundation
「戦後日本の前衛美術」展(artscape)
最終更新日: