1980〜90年代以降に、いったん「終わった」とされた抽象絵画を、どのようにもう一度成立させることができるのかを、マーク・ゴドフリーが、明確に理論化した文章です。日本語訳はこちらから。
マーク・ゴドフリー
マーク・ゴドフリー自身は当時、Tate ModernのSenior Curatorで、2007〜2021年に国際美術部門を担当していました。Gerhard Richter、Sigmar Polke、Alighiero Boetti(アリギエーロ・ボエッティ)などの大規模展も手がけた人物です。
論文の基本情報
Mark Godfrey, “Statements of Intent: The Art of Jacqueline Humphries, Laura Owens, Amy Sillman, and Charline von Heyl”
Artforum, vol. 52, no. 9, May 2014, pp. 294–302, 344。
Artforumの2014年5月号に掲載されています。
Laura Owens本人のサイトでもこの論文が2014年の主要文献として掲載されています。
なお、ネット上に流通しているPDFのファイル名やメタデータには「April 2014」と表示されるものがありますが、誌面そのものと複数の書誌情報ではMay 2014です。
論文の対象は、
・Jacqueline Humphries
・Laura Owens
・Amy Sillman
・Charline von Heyl シャーリーン・フォン・ヘイル(ドイツからアメリカへ移住)
の4人です。
1. この論文の核心は「新しい抽象表現主義」ではない
ここが一番重要です。
この論文の核心は「新しい抽象表現主義」ではない
マーク・ゴドフリーは、この4人を「Abstract Expressionism(抽象表現主義)を復活させた画家」とは見ていません。
むしろ逆です。
彼女たちは、
①1950年代のAbstract Expressionism的な「本物の身振り」
と
②1980年代ポストモダン的な「身振りなんて全部引用・パロディにすぎない」という態度
の両方を乗り越えようとしている、というのがマーク・ゴドフリーの基本認識です。
論文の非常に重要な一文がこれです。
“authentic gesture of midcentury painting”
と
“the emptied postmodern gesture”
のどちらからも離れ、
“uncertain, fake, or unlocatable gestures”
を作っている。
つまり、
本物でもない。
単なる偽物でもない。
誰の身振りなのかも完全には特定できない。
という第三の状態です。
これは非常に興味深い。
2.なぜ「身振り」が問題になるのか
こでいうgestureは、単なる「筆跡」ではありません。
例えばJackson Pollockのドリップを見ると、
「作家が身体を動かした」
↓
「その身体の痕跡が絵に残っている」
↓
「だからこの絵にはPollockという主体の存在が刻まれている」
という読み方ができます。
つまり、
brushstroke(ブラッシュストローク・筆跡・筆使い) = artist’s body(アーティストの身体性) = artist’s subjectivity(アーティストの主観)
という関係です。
抽象表現主義の「ジェスチャー」は、単なる形ではなく、作者の存在そのものの証拠だった。
ところが、ポストモダニズムになると、それが疑われます。
「そんな筆跡だって、過去の絵画史から借りてきただけでは?」
ということになる。
そこで1980年代以降には、
1.引用(reference)
2.パロディ(parody)
3.盗用(appropriation)
4.皮肉(irony)
5.偽物のジェスチャー(fake gesture)
などによって、「作者の本物の身振り」という神話を壊す方向へ進みました。
マーク・ゴドフリーが面白いのは、そこで終わらないことです。
3. 「偽物のジェスチャー」が重要になる
例えばJacqueline Humphries。
彼女はドリップを使います。
でも、それは普通のドリップではない。
本来なら、
液体の絵具が流れる → 偶然ドリップが生じる
と思いますよね。ところがHumphriesの場合、2014年の《41/14》などでは、乾いた絵具を積み上げることで、流れたように見える「偽のドリップ」を作っています。でも、これは単純な「嘘」ではありません。
ドリップという記号が持っていた歴史的意味を知った上で、それを使っている。
だからマーク・ゴドフリーはこれを単なる引用やパロディとは区別します。
ここで思い出される作品はロイ・リキテンスタインの「Brushstroke(ブラシストローク)」という作品です。 1965年に初めて「筆跡そのもの」をテーマに取り上げ、抽象表現主義の激しい筆づかいを皮肉りつつ漫画風の表現で描き出しました。
4. Charline von Heylの場合はもっと露骨
von Heylも「それらしく見える筆跡」を作ります。
例えば《It’s Vot’s Behind Me That I Am (Krazy Kat)》では、ドリップの列の中に、実際に流れたものと「描かれたドリップ」が混在しています。
さらに彼女は、
Bernard Buffet
Celestino Piatti
Georges Rouault
など、現代の正統的な美術史から見ると「二流」とされがちな画家の筆致まで利用する。
ところが、それを単純に引用するのではない。
近づいて見ると、
「あれ? この筆致、本当にそうなの?」
となる。
Godfreyが使う非常に重要な言葉が faking です。
そしてfakingには、
quotation(引用)
parody(パロディ)
とは違う作用がある。
引用なら「これは引用だ」と認識できます。
しかしfakeの場合、
本物なのか偽物なのか、一瞬判断できない。
ここに見る側の不安定さが生まれる。
5. Laura Owensはさらに面白い
Laura Owensの場合、テクノロジーが直接入ってきます。
例えば2012年の《Pavement Karaoke》。
彼女はコンピューター上で曲線を作り、それをキャンバスに投影して、その形を厚い絵具で埋めます。
つまり、
computer-generated form
→ canvas
→ handmade impasto
という変換が起きている。
その結果、
「ものすごく人間的な厚塗り」に見えるものが、
実はコンピューターによって生成された形を人間が塗っている。
ここが非常に重要です。
テクノロジーによって絵画が「消える」のではなく、
テクノロジーによって、絵画的身振りそのものが奇妙なものになる。
6. 「作者が描いた」という単純な関係が壊れる
例えばOwensの絵では、人間が線を描いたのか、コンピューターが線を作ったのか、
人間がコンピューターの線を描き直したのか、その結果として「人間が描いたように見える」のか、が簡単には分からない。
だからGodfreyのいう
“unlocatable gesture”(場所が特定できないジェスチャー)
が成立します。
つまり、「この身振りはどこから来たのか?」が特定できない。
7. そして、この論文で最も重要なのが「unknowability(知りえなさ)」
この論文を読むなら、ここを一番注目した方がいいと思います。
マーク・ゴドフリーは4人の発言を集めて、
unknowability(知りえなさ)
という言葉にまとめます。
Humphries:「知っている絵を壊して、まだ知らない絵を作る」
Sillman:「まだ知られていない状態、生成しつつある状態」
von Heyl:「designを超えられるのはunknownの中だけ」
Owens:「languageすることを拒否する」
ここでいうunknownは、
「私は何も考えていません」
ではありません。
むしろ逆。
ものすごく絵画について知っているからこそ、知っている範囲から外へ出ようとする。
これが重要です。
8. 「知らない」と「知らないようにする」は違う
Godfreyの文章の一番面白いパラドックスはここです。
この4人は、
絵画をよく知らないから未知になるのではありません。
むしろ、
・絵画史を知っている
・AbEx(抽象表現主義)を知っている
・ポストモダニズムを知っている
・gestureの歴史を知っている
・compositionの歴史を知っている
・デジタル技術も知っている
その上で、
意図的に「自分でも完全には分からない状態」に持っていく。
Godfreyはこれを、非常に重要な矛盾として捉えています。
profound knowledge(奥深い知識)
と
unknowability
が同時に存在する。
つまり、「知らないこと」が、熟練の結果として生まれる。
これはかなり重要な考え方です。
9. ここから「composition」の話に移る
Godfreyはgestureだけではなく、compositionも問題にします。
ここも現代絵画史ではかなり重要です。
モダニズムでは、
「作家が構図を決める」
ということが強い作者性につながります。
一方、モダニズム以降は、
grid
monochrome
all-over
chance
gravity
process
などによって、「作者が構図を決めない」方向が発展しました。
Godfreyは、この「non-composition」もすでに歴史化していると考えます。
つまり、「偶然に任せました」ということすら、もう新しくない。
そこでこの4人は、
compositionを復活させる。
ただし、昔のような完全な作者の意思によるcompositionではない。
subjective + contingent
つまり、
自分が決める+途中で絵に裏切られる
という状態です。
10. 「絵が自分を要求してくる」という感覚
ここが非常に面白い。
4人とも制作途中で、「絵の方から何かを要求される」という話をします。
von Heylは、「自分が絵を作るのではなく、絵が自分自身を発明してほしい」という趣旨のことを言う。
つまり、
作者 → 絵
という一方向ではなく、
作者 ↔ 絵
になる。
最初は作者が絵を操作する。
しかし途中から、
「ここを消せ」
「ここを壊せ」
「ここには何か必要だ」
と、絵そのものが作者に判断を要求してくる。
これは「偶然に任せる」とは違います。
作者性を捨てるのではなく、作者性を不安定にする。
11. そして「feminism」とつながる
ここは論文の政治的・思想的な部分です。
GodfreyはHelen Molesworthの2013年のAmy Sillman論を参照します。
Molesworthによれば、フェミニズムは、
power / mastery
つまり、「私は完全にコントロールしている」というモデルそのものを疑う。
そしてそこから、
「unknowability = 知りえなさ」
が価値になり得る。
これはかなり面白い転換です。
従来の男性的な抽象表現主義のモデルでは、
私の身体
↓
私の身振り
↓
私の作品
という強い主体が想定される。
しかし、この4人の場合、
私
↓
絵具
↓
過去の絵画史
↓
デジタル技術
↓
偶然
↓
私の判断
↓
絵そのものの抵抗
という複雑な関係になる。
作者は「すべてを支配する人」ではなくなる。
12. ここで「technology」が決定的になる
Godfreyはテクノロジーを、
「コンピューターが絵画を置き換える」
という単純な問題として扱っていません。
むしろ、
デジタル環境によって、私たちの「見る身体」そのものが変化している
と考えています。
論文最後の “VIEWING BODIES” という章が重要です。
Godfreyによれば、この4人は、
・画面による視覚
・情報過多
・attentionの変化
・iPhoneによる常時接続
・空間感覚やスケール感の変化
などを背景にしている。
だから彼女たちは、
「デジタル画像について絵を描く」
というより、
「デジタル環境の中で、人間がどう見るか」を絵画によって問い直す。
ここがかなり重要です。
13. Humphriesが特に象徴的
例えばHumphriesは銀色の絵具と黒を使います。
銀色はコンピューター画面の光を連想させる。
でも画面のように均一には光らない。
見る位置を変えると、
・吸収
・反射
・黒
・銀
・下層の色
・傷
・擬似的なドリップ
が変化する。
つまり、
screenの視覚体験をcanvas上に移植しながら、screenとは違う身体的な視覚経験を作る。
Godfreyはこれを、screenの魅力に対抗するというより、
screenと同じくらい人を惹きつけながら、screenより複雑な身体的経験を与える
ものとして考えています。
14. だから「Painting After Technology」は「Technologyを描くこと」ではない
ここは以前の話とつなげると、とても重要です。
この論文から見ると、Painting After Technology
とは、コンピューターやスマートフォンを題材にした絵画ではありません。
もっと根本的に、テクノロジーによって「見る」「作る」「作者である」「本物である」という概念が変わった後で、それでも絵画を作ることです。
だから、
fake gesture
digital generation
uncertainty
unknowability
composition
authorship(著者の責任と権利)
bodily viewing「身体的な鑑賞」や「体感的な見方」
が全部一本につながります。
15. 4人を整理すると
・Humphries gesture / digital vision / perception fake drip、銀色、反射、layering
・Owens digital production / heterogeneous image computer + painting + collage + impasto
・Sillman gesture / body / gender / uncertainty 身振りを躊躇させる、figurationとabstraction
・von Heyl style / design / quotation 「それらしく見える」ものを偽装する
「絵画を成立させるために、絵画を信じすぎない」が根底の共通項として存在します。これが非常に重要だと思います。
16. 「絵画を信じない」のに、なぜ絵画を作るのか?
今回の論文の革新部分です。なぜ絵画を作るのか?
この論文の核心はここだと思います。
1950年代:絵画は作者の身体と精神を直接表現できる。
↓
1980年代:そんなものは幻想。全部引用・記号でしかない。
↓
1990〜2000年代:では、どうやってもう一度絵を作る?
↓
Humphries / Owens / Sillman / von Heyl:
「本物の身振り」を信じる必要もない。
しかし、単なるアイロニーに逃げる必要もない。
そこで、
fake
uncertain
unlocatable
unfinished
unknowable
という状態を積極的に使う。
これが彼女たちの新しさです。
17. 実は「Statements of Intent」というタイトルも皮肉
タイトルは Statements of Intent。
つまり、「意図についての声明」です。
ところが論文を読むと、作者の意図を完全に確定することそのものが疑われている。
作者は意図を持っている。しかし、作者自身がその意図を完全には把握していない。
さらに完成した作品を見る側も、作者の意図を完全には復元できない。
だから、
Intentはある
↓
でも透明ではない
という状態になる。
この意味でタイトルそのものが面白い。
18. そして、これは2014年という時点でかなり重要だった
2014年という時期も見逃せません。
同じ2014年には、MoMAの「The Forever Now: Contemporary Painting in an Atemporal World」が開催され、Charline von HeylやLaura Owensなども取り上げられていました。
つまりこの時期、「なぜ今、また絵画なのか?」が大きな批評的テーマになっていた。
またAmy Sillmanについては、2013〜14年に最初の大規模美術館サーベイ「One Lump or Two」が開催されていました。したがってGodfreyの論文は、単独の思いつきというより、「Painting Is Back」ではなく、「Paintingがどのように別のものになったのか」を説明しようとした2010年代の重要な議論の一つと見る方が正確です。
19. そして2026年現在から見ると、さらに面白い
この論文が2014年。
その後、
Instagram
smartphone
Photoshop
filters
generative image
AI image generation
と進んできた。
するとGodfreyが言った
「gestureがunlocatableになる」
という問題は、むしろ強くなっています。
例えば、この画像は誰が作ったのか?
だけでなく、
どこまでが人間で、どこからが機械なのか?
この筆跡は実在したのか?
これは写真なのか生成画像なのか?
作者は何を意図したのか?
という問題になってきた。
つまり2014年のGodfreyの議論は、今読むとかなり先回りしています。
実際、Humphriesはその後、ASCII、emoji、CAPTCHA、QWERTY keyboardなどデジタル言語を絵画に取り込む方向へ進み、2021年のWexner Center展ではGodfreyがその展覧会をキュレーションしています。
20. 要約
一文にすると、
「絵画は、作者の本物の身振りでも、過去の身振りの単なる引用でもなくなった。その不確かさそのものを制作の条件にすることで、絵画は再び現在のものになり得る。」です。
そして、さらに重要なのは、
「知らないから作る」のではなく、「知りすぎているからこそ、自分の知っている絵画から脱出する」
というところ。
ここがGodfreyのいう unknowability(知りえなさ) の本当の意味だと思います。
参考文献
https://www.owenslaura.com/downloads/
Mark Godfrey, “Statements of Intent: The Art of Jacqueline Humphries, Laura Owens, Amy Sillman, and Charline von Heyl,” Artforum, May 2014
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